ある日、世界各地に「ゲート」が現れた。
ゲートといっても扉のような姿をしているわけではない。
言うなれば、空間に空いた穴。
ある種の空間の歪み。
そういった現象だ。
ゲートの向こう側にはまるでアニメやゲームのような、いわゆるファンタジーという言葉でくくられるような空間が生成されていた。
その空間はリアルタイムで成長し、変容し、やがて実体化する。
ゲートが出現した場所の周囲がそのままゲート内の空間に置き換わってしまうのだ。
そうなれば当然、魑魅魍魎とでもいうべき魔物たちが解き放たれてしまう。
後にその異空間は「ダンジョン」と呼称されるようになった。
初めにゲートが現れたのは東京という大都市のど真ん中。
突如現れた謎のゲートは人々の注目を集めたが、ダンジョンの実体化が起きてしまってからそれどころではなくなった。
瞬く間に都市中に魔物があふれ、何人も死んだ。
そしてその後……何者かの手によって実体化したダンジョンは東京ごと消滅させられた。
その事件から数十年と時は進み、ダンジョンに立ち入った者が特別な力に目覚めることがあると明らかになる。
そこからは、ある種の新時代の到来である。
ダンジョンがあるのが当たり前の時代、そしてそれを攻略する者たちの時代。
そんな特別な力に目覚めた攻略者たちを人々はこう呼ぶ。
「ダンジョンクリーナー」と。
そしてまた、今ここに新たなダンジョンクリーナーが生まれようとしていた。
◇◇◇
いつからこうだっただろう?
もしかしたら初めからこういう運命だったのかもしれない。
俺の名前は水瀬 優。
どこにでもいる普通の学生……少し前まではそうだった。
しかし、その身分も失った。
今の俺は何者でもない。
漠然と、どうにかなると思ってきた。
なるようになると、そういう風に考えていた。
現に今までどうにかなって来たし、最終的には大団円のオチが待っていると思っていた。
そしてその結果、無残にも社会から振り落とされた。
職もなければ愛想もない。
社会に居場所がないと、まるで自分が人間でないみたいだった。
今の俺には何も無い。
かといってそんな空虚な人生に自ら別れを告げる度胸もない。
「もう……」
カーテンを閉め切った部屋で一人頭を抱える。
「もう、おしまいだぁ……」
俺の心境を知ってか知らずか、窓の外からは電線の上を跳ねるスズメの鳴き声が聞こえてきた。
「ぬわあああああ……!!」
そうして哀叫しながらアスファルトの上をのたうつミミズのように自室の床を転がっていると、部屋の扉がノックされるのを聞く。
コンコン、と軽快なリズムで二回。
ノックは二回ではマナー違反だ、と結実することのなかった努力の足跡が無意味に頭の中に浮かぶ。
無論自室の扉をたたいてくるのは家族なので、そこにマナーもくそもない。
「優くん、いる~……? 一応ご飯できたんだけどぉ……」
「はい、います。ゴミ人間はここにいます! ウゥッ……」
「……あちゃ~、いまそういう時間かぁ……。じゃあ……まぁ、お姉ちゃん先食べてるね」
結局、ドアが開かれることなく足音は遠ざかっていく。
いまのは姉さんだ。
人間の失敗作みたいな俺と違って基本的に何でもできて、人当たりもよくて俺にだって優しいし、おまけに美人だし……。
とにかく、完璧とは言わずとも真っ当にできた人間だ。
どういう仕事をしているかとかは実は詳しく知らないのだが、姉さんのおかげで姉弟二人暮らしでも何ら不自由することは無かった。
「本当に……」
それに比べて俺はいったいどうしたんだか。
何を間違ったわけでもないのに、こうしてくすぶっている。
いや、もしかしたら間違うのが怖くて何もしてこなかったのかもしれない。
ただずっと、真っ当に生きているつもりで足踏みをしていただけなのかもしれない。
「……よっと」
何はともあれ、一日中のたうっているつもりもないので立ち上がる。
せっかく姉さんが作ってくれた料理なのだから、冷ましてしまってはもったいない。
それにどうせ姉さんのことだ、先に食べているとは言いつつも俺を待っているだろう。
だから服だけ着替えて、急いで部屋を出た。
リビングに向かうと、案の定姉さんは待っていた。
二人用の小さめのテーブルに頬杖をついて、ニュース番組のコーナーの一つである動物たちの映像集みたいなのを眺めている。
そこそこ大きめのテレビ画面には仰向けのまま笹の葉をむさぼる自堕落の究極系みたいなパンダが映っていた。
「この子、かわいいね。優くんみたい」
「ウッ……それは……すみ、ません……」
「あっ、いや違くて! そういう意味じゃないからもー!」
慌てて姉さんが俺の言葉を否定する。
どうやら俺のことを食っちゃ寝するだけの怠惰なパンダと言いたいわけではないようだ。
いや、さすがにそうでないということはもちろん分かっていたが。
「うそうそ、冗談だから。姉さんがそう焦ることでもないって」
「……でも優くん自虐で普通に傷つく人だし……」
「それは……まぁそう……」
姉さんの言葉に苦笑いしながら椅子に座る。
テーブルに並べられているのは簡素ながら手の込んだ朝食だ。
わかめの味噌汁から暖かい湯気が上っている。
姉さんは俺が座ったのを見て満足げに頷いてから、やっと箸を持ち上げた。
「いただきます」
そういう姉さんに合わせて俺も朝食に手を合わせる。
感覚としてはどっちかというと食材にというか姉さんに手を合わせてる気分だ。
それが済むと、姉さんはすぐにテレビのリモコンを手に取る。
お行儀よく食事を始めたからと言って、別に最後までそうというわけでもないのだ。
少なくともウチでは。
姉さんはいつもテレビを見ながらご飯を食べるし、俺もその姉さんに時折目をやりながら食事をしている。
チャンネルが何度も切り替えられ、中途半端に途切れた音声が連続する。
時々何か興味のある言葉に惹かれたのかリモコンを操作する手が止まるけれど、結局また別の番組に変えていた。
今日はなかなか見たい番組が決まらないようだ。
『本日は全国的に……』
『……を記念して……が……』
『旧首都の消滅。あれから……』
様々なニュース番組が告げる日常。
日々をちゃんとした一人の人間として生きている人たちに向けられた言葉。
そのどれもが今や俺には関係がない。
「姉さん……たぶんもうチャンネル一周したよ……」
「ん~……あんまり面白いのやってないなぁ……」
「まぁ、朝だし。こんなもんでしょ」
味噌汁を一口すすって、姉さんに言う。
姉さんはつまらなそうな顔をして、諦めたようにリモコンを置いた。
結局、最初に見ていたニュース番組で固定される。
その番組では動物のコーナーなどもう終わっていて、今は違う話題が中心になっていた。
それは……。
『……史上最年少のB級クリーナーが、ここ日本で誕生しました! なんと14歳でB級に昇格ということで、今多くの注目が彼女に集まっています!』
アナウンサーのはきはきした声。
それが告げるのは、ダンジョンクリーナーについての話だった。
ダンジョンクリーナー。
スキルさえ目覚めれば誰でもなれて、この番組で紹介されている少女のように若くして成功を収める可能性だって秘めている。
死と隣り合わせだけれど。
そんななか、この少女は若々しい才能を携えてB級に昇格したのだ。
スキル覚醒さえすれば、C級まではわりと行けるらしい。
ところがB級はそうはいかない。
B級の壁、なんて言葉が生まれるほどだ。
「へぇ、14歳……無垢ちゃんだって。すごい子もいるんだね~」
「……でも、本来子どもにこんなことさせるべきじゃないだろ。まぁ、俺が言えたことじゃないけど……」
俺の言葉に姉さんが一瞬目を丸くする。
そして少ししたら柔らかく微笑んだ。
「……ふふ、そうだよね。確かに! 優くんは優しいね」
「ウッ……」
「え、ちょっと! ほめてるのに何でそうなるのさ~!」
姉さんのまっすぐすぎる笑顔は、場合によっては悪口以上に効くのだった。
優しい人間ならこんなところで立ち止まってないよ。
しかしあの歳でB級か……。
となると収入は……。
少し考えて、そしてすぐにやめる。
あまりにも自分がみじめに思えてきたからだ。
才能さえあれば億万長者も夢じゃない。
ダンジョン内で手に入る物質は基本的に高値が付くし、高難易度のダンジョンを攻略すればそれだけで大儲けだ。
なんとも夢のある話だが……俺とは住む世界が違過ぎる。
もう目に見えているのだ。
きっと俺はC級どころかスキル覚醒すらしない。
そんな才能、あるわけない。
そうだ。
この現状もなるべくしてなったんだ。
俺ははなから失敗作で、何の才能もなく、空っぽで……。
「あーもう!! すぐそういう顔する!!」
突然、ぐわんぐわん視界が揺れる。
何かと思えば、姉さんが俺の頭をわしわし乱雑に撫でていた。
そうやって髪の毛をぐちゃぐちゃにして、テレビを消す。
「ふぅ……まったく。あの手の話は今の優くんには毒だったかもね」
「…………」
姉さんの言葉に何も言えなくなる。
ひどくみじめで、言葉が出なかった。
「そりゃさ、受けたところことごとくお祈りメールで、おまけにバイトもクビになったら誰だって落ち込むよ!」
「ウッ……」
「今はそれ禁止!」
ぺちんと、姉さんの指先が額をたたく。
「……けどね、優くんは優くんのペースでいいの。焦らないで。急がないで。お姉ちゃんは、ずっと優くんのそばにいるから! だからさ、大丈夫。大丈夫だよ。ね?」
まるで子どもを慰めるような表情で、姉さんは俺の顔を覗き込む。
それに俺は、黙って頷くほかなかった。
姉さんは優しい。
でも、だからこそ今のままではいけないと、強くそう思うのだ。
自分に言い聞かせる。
お前が最後に本気になったのはいつだ?
そう問いかければ、いやでも自分のどうしようもなさが見えてくる。
結局そう、本当に俺は今まで足踏みをしていただけなのだ。
前に進もうとしなかった。
姉さんの優しさに甘えて。
いつだってそう、自分に何も無いかもしれないということを知るのを恐れて、本気になれなかった。
壁にぶつかる前に「ここは自分に向いていない」と背を向けてきた。
だけど、流石にそろそろ姉さんの優しさに応えなければならない。
人として、成し得なければならない最低ラインだ。
それほどに俺は姉さんに守られ、救われてきた。
だから、今できることをしなければならない。
そしてそれは……。
「姉さん、とんでもないこと言っていい?」
住む世界が違う?
どうせそんな才能などない?
本当に……?
確かめもせず何を言っているんだ、俺は!
「なぁに? 優くん?」
姉さんが首をかしげる。
「俺……俺さ……」
言え!
臆するな、退路を塞げ!
いい加減人間になれ!
「俺、ダンジョンクリーナー……試してみる」
宝くじよりはまだ現実的な確率だろう、たぶん。
テレビの14歳に感化されてなんて馬鹿みたいだけど、頭から可能性を否定して賽を振らないのはもっと馬鹿だ。
姉さんは俺の言葉に不安そうな表情を浮かべる。
しかし決して首を横には降らなかった。
「うん、分かった。あんまり危ないことは……だけど、優くんが決めたならお姉ちゃんも手伝う。応援してるからね!」
俺の肩に手を置いて、姉さんは深く頷く。
そして数秒後、体の力をフッと抜いた。
そして笑う。
「へへ、ご飯冷めちゃったね」
「あ、ごめ……」
申し訳ないのと、なんだか小恥ずかしいような気持ちで頭をかく。
もちろんそれで気がまぎれるようなことはなかった。
そしてそんな俺の顔を、姉さんは穏やかな表情でじっと見つめる。
「え、っと……姉さん?」
「ふふ……優くんは優しいね」
「え……え? なんで?」
「なんでも」
なんだか分からないけれど、そうやって姉さんがくすりと笑うのが無性に嬉しかった。
思い立ったが吉日という言葉がある。そんなわけでダンジョンクリーナー協会に訪れた。クリーナー協会はいつでも新たな可能性の芽を待ってるぞ!みんなも要チェックだ! まぁそんな冗談はおいておくとして、実際クリーナー協会は来るもの拒まずの姿勢だ。武術の有段者である必要もなければ、小難しい資格なども必要ない。すべてはスキル覚醒するか否かということにかかっているわけだ。 一応俺の居住都市はそこそこ規模が大きいので、協会の規模もそれに比例して大きい。道は姉さんが教えてくれた。あと事前にある程度電話で話を通しておいてくれたらしい。何から何まで姉さんに頼りきりである。「しかし……ここがクリーナー協会の建物だったとは……」 見たことはあるが得体のしれない建物。そういうのは誰しもあるものだろうが、ダンジョンクリーナーを志してその正体をはじめて知った。 姉さんに知らされた約束の時間はもう迫っている。もちろん遅れるわけにはいかないので多少恐る恐るといった感じでビルの中に入っていった。 二重の自動ドアを抜けると、蛍光灯の無機的な光が俺を出迎える。その白色の明かりと同じように、建物の内装もまた清潔感のある白色だった。忙しそうに駆け回る人や、受付前の長椅子に腰かけて何かを待っている人。やっていることは様々だがとにかくそこにはたくさんの人がいた。雰囲気としてはなんだか病院のようですらある。ダンジョンで出た怪我人の救護や応急処置なども協会で行われていると聞くし、あながちその印象は間違いでもないのかもしれない。 時間に余裕があるわけでもないのでさっさと受付に向かう。窓口がいくつかあるが対応中のところが多く、とりあえず空いているところに向かった。「あの、すみません」「はい。どういったご用件でしょうか?」 俺が向かった窓口に居たのは若い男性の職員。真っ白なスーツを一切の違和感なく着こなす真面目そうな人だ。俺がスーツを着るとなぜだかどうしてもコスプレ感が否めない。ここに来るのがある種の就職活動とはいえ、今この瞬間も俺は私服のままだ。まあもともとスーツでするような仕事ではないし。「あの、ダンジョンクリーナーの……研修?の方に申し込んだ者なんですけど……」「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」「あ、はい。水瀬、です。水瀬 優……」 しっかりし
「さて、そしてここからが……もう少し面白い話だ」 鹿間さんが表情を変えて言う。そうしてこの部屋に入った時からあったソファーの上のバッグから銀色の腕輪を取り出した。鹿間さんの腕に装着されているものと同じものだ。「これ、なんだか分かるか?」「インベントリ……」 鹿間さんは俺の返答にニヤリと笑う。「ハハ、そうだな。ま通称だけど。正式名称は……あー、ボクも覚えてないや。まあそれはいいとして……こいつは明日からの七日間、今日を含めるなら八日間君のものだ。あぁもちろん、正式にクリーナーになればずっと君のものになるよ」「こ、これが……本物の……」 絶対高価なものだろうに、鹿間さんは無造作に俺に手渡す。見た目よりだいぶ軽量で、そのせいで逆に取り落としそうになってしまった。「そう、それが本物のインベントリ。ダンジョンの空間歪曲・拡張現象を応用してのいわば四次元バッグだ。まだ謎の多い技術が使われてるから一般には出回ってない。クリーナーにだけ支給されるものだ」「こういう場面で持ち帰って売っちゃう人とかいないんですか?」「ハハハ、面白いこと聞くな。実はな……ウチじゃないんだが一回そんな感じのことが起きたみたいでな、それ以来この場で装着してもらうことになってる。一回装着したらこっちでしか外せないからな。あ、だから……どこに着けるかはよく考えろよ? どのくらいの直径まで対応してるか気になるとか言って頭にはめたらそのまま外せなくなったやつとかいるからな」「えぇ……」「……ちなみにそいつはウチで起きた話だ。しかも現役。流石にいったん外そうかって話になったんだが、案外気に入ったみたいでそのままだ」「えぇ…………」 とりあえずここで装着するようになっているみたいだから、無難に利き腕の右腕にはめる。接続部をロックしてからしばらくすると自動で輪が収縮し、ぴったりのサイズになった。その仕組みも含めて、謎の多い装置だ。「っていうか、やっぱり鹿間さんもクリーナーだったんですね」「ん? ああ……そうだな。ダンジョンについての説明をせにゃならんのだから、よく知ってる当事者に任せるのが適任だろう? 因みに、ボクもこう見えてC級ね」「こう見えてって……鹿間さん見た目からしてだいぶ強そうですよ……」「ハハハハ、まぁな。けど結局は筋肉つけてもダンジョンでの強さはスキルやステー
その連絡は丁度明日に備えて準備しているときに来た。表現を変えるならインベントリにものを入れたり出したりして遊んでいたともいうが、まあそれはどうでもいいだろう。電話の主は鹿間さん、間違いなく明日のことに関する連絡だろう。 姉さんも見守る中、急いで電話に出る。すると興奮気味の鹿間さんの第一声が届いた。「水瀬君! 君、運がいいよ! 君たちの一回目の研修、あの今話題の皐月 無垢が面倒見てくれることになった!!」「え、無垢って……あの!? っていうかここの協会所属だったんですか!?」 無垢……皐月 無垢と言えば、ちょうどあの時テレビでやっていた史上最年少のB級クリーナー。あの時のテレビでもちょっとした写真くらいしか出ていなかったがその姿を思い出す。 深い海のような藍色の瞳、短めの髪は不思議な青色で……小さな口をキュッと結んだ実年齢よりやや大人びて見える少女だった。「っていうか研修を担当するクリーナーってC級の人じゃなかったんですか?」 禁断の「っていうか」二度撃ちをして鹿間さんに尋ねる。鹿間さんはそれに「あぁ」と曖昧ながらも反応を示してから、すぐに返答した。「それについてはほら、あの子まだB級になったばっかだからさ、C級だったころに承諾した分がまだ未消化だったみたい」「未消化ってそんな……」「ダンジョンでとれる素材とかって本来は山分けなんだけど、研修でとれた素材は全部担当したクリーナーが受け取れるからね。結構おいしいんだよ。そんなもんだから研修の仕事たくさんもらっておいたんだろうね。彼女、装備の強化に余念がないから」「未発生の仕事受け取れるもんなんですね……」「ハハ……まぁ研修希望者はほとんど毎日来ると言っても過言じゃないからね。あとから依頼するのじゃ追いつかないんだ。だから月初めにその月の分の依頼を先に出しておく。で好きな日付の仕事を貰ってもらって、その日になったらよろしくお願いしますって仕組みさ」「はぁ……」 もうそれくらいの話になるとあんまり俺には関係なさそうなので気のない返事で相槌を打つ。鹿間さんも別にそこまで聞かれていたわけじゃなかったことを悟ったようで元の話題に戻した。「まあともかく、だ。無垢ちゃんに見てもらえるのは本当に運がいい。ただ……彼女、悪い子じゃないんだけどちょっと変わった子だから……まぁ何か言われるかもしれ
皐月 無垢は特に俺たちの様子を気にするようなことはなく、ゲートの前まで移動していく。俺たちは整列するわけでもないが自然とそちらの方を向き、そして彼女の言葉を待つのだった。「とりあえず……おはようございます。私は今日あんたたちを担当する、皐月。年上にした手に出られるのは気持ち悪いから敬称は省いて」 すでに明らかなことではあったが、彼女の口から直接「皐月」の名が語られることで場がどよめく。夏山さんに至ってはそれを超えてほとんど魂が抜けたような表情をしていた。 皐月さ……皐月は、人数でも数えているのか無関心そうなまなざしを俺たちに滑らせる。結局、全員見渡すまでその表情が変わることはなかった。 皐月はつまらなそうに小さなため息をつく。「はぁ、まあ期待はしてなかったけど……やっぱりこの時期は不作だね。時間がもったいないからさっさと終わらせるよ」 その皐月の言葉に再び集まったメンバーはざわついた。皐月のこの言葉が独り言ではないのは明らか、間違いなく聞かせるボリュームだった。鹿間さんが皐月について語ったときの声色を思い出す。そういうことだったのか。 研修メンバーの中の、金髪のガラの悪そうな兄ちゃんが我慢ならないといった様子で、一歩前に踏み出す。「おいよ……お前さんよ、それはどういうことだよ? 喧嘩売ってんのか? なぁ?」 立場の壁すら超えての喧嘩腰、それに同調するように若者たちは続いた。「そうだよ! 強ぇのかもしんねーけどさ、あんま人を舐めるなよ?」「どうせ今まで周りからちやほやされてきたんだろうけどよ、俺たちはそうはいかないぜ? ガキがよ」「どういう意味なのかちゃんと説明してみろよ!」 皐月の態度があまり良くなかったとはいえ、若者たちの沸点もまた低すぎる。一人が沸き上がらせた怒りは瞬く間に伝染し、ガラの悪い少年集団をほとんど不良のように変貌させた。 俺の隣で夏山さんがつぶやく。「はぁ、あの人たち分かってないなぁ……。無垢ちゃんはあれがいいのに……」「え、あ……夏山さんはあの人の性格については知ってたんだ……」「当り前じゃないですか! こうして名のある人になっても媚びないっていうか、芯のある感じが最高にかっこいいんですよ! あと顔がいい。すごく」 流石ファン、なかなかに好意的である。というより盲目的……? 数々のオラついた
改めてあたりを見渡すと、自分がほんとに全くの別世界に来てしまったのだと痛感する。「これが……ダンジョン……」 ダンジョンにもいくつかタイプがあるらしいが、ここはまるでどこかの鍾乳洞というか……そういった雰囲気のどこからか水の滴る音のする洞窟だった。陽の光は差し込んでいないのに、なぜかあたりが薄らぼんやりと明るい。というか……鉱石だろうか、むき出しの岩肌自体がところどころ発光しているようだった。 皐月が全員そろったのを確認すると口を開く。「いい? まずダンジョンに入ったらすることは出口を見つけること。ダンジョン内の空間のありようはかなりでたらめだから、入ってきたところがそのまま出口ってわけじゃない。これを後回しにする人も多いけど、そういう人は馬鹿だと思っていい。研修中にもそういうクリーナーに当たるかもしれないけど、もし正式にクリーナーになったらそいつの言ったことは忘れな。そいつは馬鹿だから」 皐月の言葉を聞いてほとんど全員が同時に後ろへ振り返る。するとそこにはただの行き止まりがあるだけだった。俺たちが外で触れてきたゲートのようなものは無い。皐月の言った通り、入り口と出口は別々なわけだ。「それと明かりね。今回みたいにダンジョン内部がすでにある程度明るい場合も少なくないけど、協会の方で腰掛けランタンが売ってるからこだわりがないならそれを使いな。ま、研修中は担当クリーナーがなんとかしてくれるから、すぐに買う必要はないね」 意外にも丁寧というか、わりとちゃんとしたことを言っているようでちょっと驚く。いや、当然俺は皐月という人間についてほとんど何も知らないわけだが、ファーストコンタクトがあれだっただけに予想外だった。俺の隣の夏山さんも皐月の話に真剣に耳を傾けている。「それじゃ行くよ。武器を構えて。もうここは……魔物の領域だから」 ダンジョンに入る前、皐月は「先行も許す」と言っていたが、今やだれもそんなことをする度胸は無い。威勢の良かった若者たちですら、ダンジョンに立ち入ってからは皐月の言葉に静かに頷くばかりだった。 時間の無駄だのなんだのと言っていた皐月も、その足並みを決して急くことはない。しっかりと後ろを気にしながら、最も遅い人のペースに合わせている。鹿間さんの言うように、決して悪い人ではないというのもよく分かった。 洞窟は、足場
俺たちに続くようにほかのメンバーもなだれ込む。いきなり群れの一人を殺された上に、そこからさらに大挙して押し寄せるものだから魔物たちはさらに混乱する。皐月はそれを見るとふらりと騒がしい場所から離れた。 皐月は三十体居ると踏んでいたが、しかし見たところ十体ほどしかいるように見えない。皐月ほどの者がそんなことを間違えるともあまり思えないのだが……。不思議に思っていると、突然一匹の魔物が急に魂を抜かれたかのように動きを止めた。「な、なんだ……?」 動きが止まったとあれば普通に考えればこちらの攻撃チャンスなのだが、その不可解な様子に戸惑う。他のメンバーもすぐにその違和感に気づいたようで、武器は構えつつも様子を窺っている。すると……。「……なんなんだ? 気味が悪ぃな……」「どういうことなんだよ……」 まるで伝染するかのように、他の魔物たちもその動きを止めた。誰もがその光景の異様さを気味悪がり、口々に困惑を吐き出す。さっきまで阿鼻叫喚というくらいの様子だった魔物たちが、この一瞬で微動だにしなくなったのだ。 始まるかに思われた混戦は始まらず、最初に皐月が退治した一体の死体だけが転がる。魔物たちは白眼のない真っ黒な瞳で虚空を見つめ、俺たちもそれに言い知れぬ恐怖を感じて手を出せない。あまりにも不自然な静寂。その張り詰めた空気に不釣り合いな緊張感のない声が響いた。「あーあ……っつってね」 今までどこに姿を隠していたのか、全然見つからなかった皐月。その彼女が少し笑みを浮かべて壁に寄りかかっていた。「外であったひと悶着の仕返し。耳塞いだ方がいいかも?」「そ……それってどういう……?」「さてね」 皐月に聞き返すが白々しい態度で返されてしまう。俺らは黙って話聞いてたし、仕返しに巻き込まれる形になるんだけど……。 なんだかよくわからないままだろうが、夏山さんは皐月の言ったとおりに耳を塞ぐ。そして説明やその意味を求めた俺含むその他はワンテンポ遅れる。その一瞬の遅れが、運命を分けた。「オオオオオオオオオオオオッッッ……!!!!!!」 魔物の一匹が絶叫する。その音はまるで破裂するかのようにダンジョン全体に響き渡る。そして魔物たちの急な静止のようにそれは伝播する。「ぐッ……アァッ……」 頭痛を引き起こすほどの大音量と地を震わせるほど
「それじゃあ、ボス戦の前に一つネタバラシをしようか」 皐月はいまだ固く閉じた扉を一瞥した後に話し始める。「もうさっきの戦闘で流石に気付いたと思うけど、あんたたちに貸し出された武器はただの短剣じゃない。協会が特別に用意したステータス補正つきの武器なの」「ステータス……補正、ですか……?」 夏山さんはまるで皐月の生徒になったかのような食いつきで、詳細について聞き返す。それに皐月は浅く頷いた。「そ。ステータス補正。あの武器を装備していれば、少なくともE級クリーナー相当のステータスに補正される。もちろんスキルまで手に入るわけじゃないけどね。まぁスキルが無くてもE級ダンジョンで問題なく戦えるくらいの身体能力にしてくれるってわけ」「なる、ほど……。道理で……」 自分の手のひらを見下ろす。もちろんそれを見たとて何がわかるわけでもない。しかし戦闘中の違和感についてはこれで明らかになる。仲間たちも自分の手に持った武器をほとんど無意識で眺めていた。「ま、そういうわけだから……たとえボスが相手でもそんなに大きな危険はない。けどしようと思えば骨折くらい余裕でできるから。つまり何が言いたいかっていうと……」 一度は扉から離した手を、皐月はもう一度鉄扉に添える。「……準備はいい?」 今日一番の真剣な表情。ただ俺たちはとうにその覚悟は決まっていた。誰からともなく皐月の言葉にみんな頷く。それを受けて皐月は少し表情を柔らかくすると、両手で扉を押した。 重々しいはずの扉は、十四歳の少女の力でゆっくりと動く。洞窟全体に響く振動と、扉が地面にこすれる音。その低く重い音が臓器を震わせた。「……」「…………」「………………」 扉の先に広がる闇に誰もが息をのむ。開け放たれた扉の内側にこちら側の空気が流れ込むと、それに反応するかのようにボス部屋の壁面が淡く光りだす。その光は巨大なボスモンスターの体躯を照らし出した。「……! これが……!」「ボス……」 俺も夏山さんも、ボスの姿を見上げ唖然とする。薄い闇の中で赤く輝く瞳が、今まさに扉を開いた俺たちをにらみつけた。 身長は……正確には分からないが五メートル以上は確実にある。全身が骨だけで構成されていてたくましい筋肉どころかそもそも肉がない。それなのにデカい。それなのに重厚。 巨大な斧を担ぎ、眼球
「あの……夏山、さん……?」 どこか悪いところを打ったのか、とうとうおかしくなってしまったのかもしれない。その瞳は虚空を見つめ、もうボス自体にも焦点が合っていないようだった。「ひぇっ……」 皐月もさすがにこの様子には引き気味で、何よりこの状態に陥るトリガーとして自分が関係していることを悟ってやや恐怖すらしていた。やはりオタクの熱量というものは向けられる当人に対してはそういった性質のものなのだろう。しかしそこから、皐月は続ける。「……こんな風に目覚める人、初めてだよ……」「…………え?」 目覚める、とそう言った。確かに。明らかにそう言ったはずだが、それでも自分の耳を疑わずにはいられない。目覚めると言ったら、この場合一つしかない……スキル覚醒だ。それを一日目にして成し遂げたのだ。 夏山さんはいまだ異様な眼光を持って「何か」を読み上げるようにつぶやく。「ミノスの骨化牛頭……推定レベル、8レべ……」 武器をすべて失い、今や隻腕となったボスを見上げる。皐月も値踏みするかのような視線をモンスターに注いだ。「8か……初戦にしては少し手ごわい相手だったかもね……。ま、それももう……」 夏山さんがハッと我に返る。そして全員に届くように大きな声で叫んだ。「弱点! 弱点がわかりました! 肋骨の奥、全身に魔力回路を構築する……いわばこいつにとっての心臓があります!」 ボス部屋に響き渡る夏山さんの声、それに全員の視線が上に向いた。現時点では一番ボスの近くにいる皐月がつぶやく。「なるほどね、あそこか……」 皐月の視線の方向をなぞれば、それは俺のところからも目視できた。太く頑丈な肋骨の、その隙間からちらりと見える真っ黒な肉の塊。それが菌糸を張るようにして体の内側に張り付いていた。「しかしあんなのよォ……」「どうすりゃいいんだよ……」 他のみんなも見つけられたようで、皆口々に似たようなことを言う。そしてそれは全くその通りで……。「あれじゃ……」 あんな高い位置じゃ、攻撃は届かない。弱点の判明、それはむしろ俺たちを失望させた。 ボスは今まで降り積もらせた怒りをあらわにするように手のひらを強く握りしめる。そして上を向いて大きく咆哮した。「ブォォォォォォォォォォォォッッッ…………!!!!」 自らを鼓舞し、赤い瞳をよりいっそう強
ビルの隙間を生暖かい風が吹き抜ける。相対するのは真っ黒な体表をしたトカゲのような魔物。唾液まみれの白い牙は、鋭く凶悪な形に湾曲している。肉を切り裂く形の牙だ。 その顔つきも残忍そのもので、黄色く濁った小さな瞳にはその攻撃性がありありと浮かんでいる。やや骨ばったやせた体格に、細長い尾。喉元には吐く炎と同じ青白い光が宿っていた。 剣を構えて、モンスターの出方を窺う。A級ダンジョンではありふれた敵なのかもしれないが、俺からすれば見たこともない未知の敵だ。ただ最初の噛みつきを何とかしのいでしまっているせいか、七日目のボスモンスターほどの絶望感もない。あれより格上の敵とまみえているはずなのに、不思議な感覚だ。 魔物自身もさっきの一撃が対処されたことで見方を変えたのか、むやみやたらに突撃してくるのでなく、俺から視線を外さないままゆっくりと歩いていた。「……」「……」 先ほどまで俺の身を案じて騒がしかったクリーナーたちも、今では事態を静観している。ただあの一撃を耐え抜けるタフさと俺の慣れてなさに乖離を感じているのか、いまいち疑心暗鬼なまなざしだ。 勝てないつもりで顔を出した戦いなのに、勝機が顔をのぞかせてきて心が混乱する。俺はここまで来て何をやってるんだ。何がしたいんだ。いったいここからどうしろというのか。けれども、もうどこか遠くに行ってしまったように感じていたあの七日間が。夏山さんたちと過ごした特別な日々が、俺の中で小さな芽をのぞかせていた。 この期に及んで、やっと心が追いついたのかもしれない。あれ以来ずっと口にするのを忌避していた名をつぶやく。「夏山さん……」 それは驚くほどするりと俺の口から出てきた。胸中に浮かび上がる、夏山さんの顔、声……。全部奪われてしまったかのように思っていたけれど、ちゃんとあの日々は俺の中に残っていた。 剣を握る手に力を籠める。本当はただの偶然なのかもしれない。けど、人間は偶然にだって意味を見出す。 正体の分からない剣。お前がどうしてか俺のインベントリに入っていて、そして今日偶然それに気づいた俺がいた。 膠着状態のにらみ合いを、こちらの手で終わらせる。相手の出方を窺ってなんて、そんなに俺は賢くない。ずっとそう、俺は生涯を通して賢く戦えてきたことなどない。ただ愚直に、ストレート
体はもうどこも悪くないのに、俺の入院状態はもう少し続くことになった。鹿間さんはいつまでいてもかまわないと言ったが、流石にそういつまでも居座るべきじゃないと思った。「優くん......」 今日も今日とて様子を見に来てくれている姉さんだったが、俺はそれに構ってやることができなかった。姉さんも今回ばかりはかける言葉が見つからないようで、静かにパイプ椅子に座っている。 ここで流れる規則正しい時間は、体の調子にはだいぶ役立っているようだが俺をもとに戻れるようにはしてくれなかった。俺の中に、いったい何が残っただろう?あの7日間は何だったのだろう。 何かが始まると思って動き出したのに、経験したのは大きな喪失だった。俺に何が残ったのだろうと言ったが、自分自身の命がこうしてきれいな形で残ってしまっていることが恨めしくすらあった。 何をするでもなく、クリーナーを志す以前のように日々を無為に過ごす。あの時は確かにあった前途に対する希望が、俺が歩いていくであろう道に満ちる光が、今では幻のようだった。 意識は散逸し、俺の中で時間が連続しなくなる。気づいたら夜になり、また気づいたら日が上っており......そんな日々がどれほど続いただろうか。 すっかり表情の消えた俺の顔を鏡で見る。誰だこいつ、と思った。◇◇◇ ある日の晩、俺は眠っていた。まるで胎児みたいに、身じろぎ一つせず。大気のにおいや温度は、すっかり夏のものに変わっていた。「なんだ......?」 外がやや騒がしいので、目を覚ます。元より車通りの多い場所ではあるが、それにしたって異様に騒がしかった。 ベッドから降り、窓に駆け寄る。すると、科学的なものとは異なる......都市の中では異質な光が見えた。「近くで......侵食が発生したのか......」 侵食。ダンジョンが一定の水準に成長した時に起きる、実体化現象。もともとダンジョンに実体がないというわけではないが、どことも結びつかない不安定な空間にダンジョンは存在している。それが、俺らの日常に唐突に現れるのだ。 町明かりの中に紛れ込む、青白い炎。どこからやってきたのかは分からないが、ちょうどここから見る位置に魔物が現れているのが見えた。中型の......研修中には出会うことのなかった、おそらく中級のモンスター。D級あた
病室の扉を開けて、こちら側を覗き込むのは俺の予想通り鹿間さんだった。体を起こしている俺を見るや否や、ものすごい形相でどこかへ走って行ってしまった。「あ、あれ……」 鹿間さんの手によって開かれていた扉が、支えを失ってゆっくり閉じる。せっかく人が来たと思ったのに、なんだか少し残念な気持ちだった。 意気消沈しているのもつかの間、すぐに騒がしい足音がやってくる。病院……ではないのか、にもかかわらず絶対に走っている足音だった。 そのパワフルさで、すぐに誰だか悟る。そして、その人物は扉が勢いよく開け放たれるのとほぼ同時にこちらに飛び込んできた。「ゆ・う・くーーーーーーーん!!!!!!!!!!!!!」「痛たたたた……! 痛いよ、姉さん……」「あ、ごめんね……傷、痛むよね……」「いや、傷は無いけど……傷云々の前に普通に痛いってば……」 俺がそういうのを聞かずに、姉さんは俺の体に腕を回しきつく抱き着いてくる。この様子を見るに、かなり心配をかけてしまったみたいだ。「だって! お姉ちゃん、ずっと心配してたんだよ!? 鹿間さんが傷も無いはずなのになぜか目覚めないって……」「傷が無いこと自体は知ってたんじゃん……」 しかし、それだとどうも引っかかる。鹿間さんが傷が治った、ではなく傷が無いと言っていたわけだ。姉さんはこんなだけれど、そういう言葉の微妙な違いを取りこぼす人ではないし、となるとほんとに鹿間さんが俺の姿を見たときには傷が無かったということになってくる。まさか町中に辻ヒーラーがいるわけでもあるまい。そもそもダンジョン外では基本的にスキルは使用禁止なわけだし……。 すこし疑問は残る形になりながらも、とにかく俺が助かったということだけは確からしいことが分かった。その後もしばらく姉さんと話していたが、真剣な表情をした鹿間さんが再び訪れたため姉さんは席を外してもらうことになった。 姉さんを見送ると、鹿間さんは自分でパイプ椅子を用意してそれに腰を落とす。そして俺の方を見つめて、ポツリと語り始めた。「あー、はは……久しぶり、だな……。調子はどうだ?」「はい、おかげさまで……すっかりぴんぴんしてますよ」「ん、ああ……そうか……」「……? なんか……どうしたんですか?」 多少会うのが久しぶりとはいえ、流石に少し様子がおかしい。ひどく話し
キーンと、耳鳴りが響く。貧血になったみたいに、すっと意識が遠のく。そして一瞬で足先まで冷えていった。 あふれた“俺の”血液が、床を打つ。跳ねる。その音が、いやになるほど鮮明に聞こえる。「あれ、なんで……」 心がしびれたようで、体もしびれたようで、世界の輪郭があやふやになる。しかし、誰かの声が俺を現実まで引き戻した。「なんで……なんでこんなことしたんですか!! 堀越さんもそう……今どき自己犠牲なんて流行らないですよ!!」 夏山さんの声だ。すごく、安心する。それと同時に涙があふれてくる。「よか、った……」「なんにも、何にもよくないですよ! 水瀬くん……どうして……」「どうして、って……夏山さんが最終防衛ラインだから……。夏山さんがやられたら、みんなやられちゃう……。俺、間違ってないと思うな」「そんなこと……!! そんなこと言ってるんじゃ……!!」 体に力が入らなくなって、ひざから崩れ落ちる。ダメだ、ミミズクとかみたいにしぶとくない。それもそのはず、俺はスキル無しの……一般人だ。でも、ちゃんと人間だ。クズじゃない、これは人間の死に方だ。「ああ、でも姉さん……怒るな……。姉さんには……」 悲しい顔をしてほしくない。やっぱり、やだな。 死にたくない。痛てぇし、しんどいし、こんな風に終わってくのか。俺、みんなを助けられたのかな……。 どこかで、やっぱり何かを間違えちゃったのかな……。それとも初めからこういう運命だったのか……。もしそうだとしても、諦めたくないし……諦められないよ。 ああ……。俺がこんなに弱くなければ……。もっと強ければ……。 あんな蛇男より、皐月よりずっと強い力……。こんな理不尽も一撃で退けられるような力……。そんなものが俺にあったらよかったのに。 死の、足音が近づいてくる。終わりの瞬間を知覚する。もう五感の絶えた世界で、俺を燃やし尽くそうとする漆黒の炎が燃え上がっていた。逃れられない、生命の終わり。死の理。◇◇◇ オレンジ色の明かりが、にぎわう店内を照らす。大衆酒場で俺を含めた10人がやかましく騒いでいた。 食べ物の味もよく分からなくなるくらい酔っぱらって、それを隣に座る女の人にあきれられて……。頭がふわふわするけれど、そういうのがたまらなく嬉しかった。 けれども
「レベル、52……!? そんなの、何かの間違いだよな……? 夏山さん……。だって、10レべと19レべの奴が合体して……それで50なんて……計算合わないじゃんか!! そんな……」 そんな無茶苦茶なことがあっていいのか?俺たちは勝って、乗り越えて、そうやって自分の生活に戻っていく。それでよかったじゃないか。なのに、それを許さないのか?俺たちは神に見放されたとでもいうのか? 何から何までひっくり返る。全部が台無しになる。台無しにされる。この運命から逃れられるすべなどないというのか。「ちく、しょう……」 ミミズクが手のひらを力強く握りしめる。そして俯きながら小さな声でそう吐き捨てた。「ちくしょう、ちくしょう……。やっと軌道に乗って来たのに、みんなであがいてあがいて、強くなって、やっとみんな笑うようになったのに……」「りぃだぁ……」 ミミズクはきつく唇を結んで、肩を震わせる。そして静かに涙を流した。「いいさ、どうせ死ぬつもりだった身だ。なんだっていい」「え、死ぬつもりだったって……どういう?」 ミミズクの口から飛び出した言葉に思わず驚く。その疑問に答えるのはキツツキだった。「もともとこのパーティ、最初は一緒に死のうっていうので集まったんだよね」 キツツキの言葉に、さらにヤマガラが続いた。「でもさ、なんか一緒に居たら楽しくなっちゃって……死にたくないなって、思ったんだ。みんなね」 ミミズクが、袖で涙をぬぐう。そして、覚悟を決めた目でこう言った。「だから、みんなは死なせない。……お前たちに会えて、ほんとに楽しくって……ありがとうな」「ちょっとりぃだぁ、何言って……」 ミミズクの言い回しに不穏なものを感じたのか、キツツキが眉を顰める。キツツキの不安そうな言葉を背に受けて、ミミズクは前に踏み出した。「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……!!」 せっかくぬぐった涙がまたあふれ出す。そして……。「ちくしょぉぉぉぉぉぉ……っっっ!!!!」 あろうことかモンスターの方へ走り出した。「ちょっとりぃだぁ……!!」 ミミズクの方に走り出しそうになるキツツキの首根っこを、スズメとハチドリが押さえる。ヤマガラは黙って顔を伏せた。 ミミズクはモンスターの前で盾を地面にたたきつけて立ちふさがる。そして決して振り返らずに、仲間
不本意な戦いではあったが、こうして勝利を収めるとじわじわと達成感が沸き上がってくる。今日は何一つ思い通りに事が運ばなかったが、それでもイレギュラーな出会いもあり、全くのダメダメな日というわけではなかっただろう。 蛇男の方も、炎霊をたったの一人ですでに撃破している。嫌な奴だし、絶対に許せないが、それでも等級に見合った実力はやはり有しているのであった。 ボス部屋の床は今や形を失ったボスの液体で水浸しである。ところどころから顔を出していた結晶の光も徐々に弱まっていく。だんだんと暗くなっていく部屋の中で、蛇男は短剣を持ってボスの亡骸……形の残った上半身の部分へ駆け寄っていた。「本当にあいつは……」 ミミズクはその様を忌々しそうに見つめる。ミミズクたちは攻略ということでダンジョンに潜っていたので、当然報酬は山分けするつもりだったのだろうが……蛇男にそのつもりはかけらもなさそうだ。彼らからしたら大損以外の何物でもない。 蛇男は周りの目など気にせずに、当然の権利のように死体に刃を突きこむ。ところが……。「ん? 妙だな? 死ねばあらゆる抵抗が消失して簡単に刃が入るはずなんだが……」 何かがうまくいかないようで、角度を変えては短剣を差し込もうとする。しかし、その刃が死体を切り開くことはないようだった。 このボスの上半身はまるで彫像のような質感で、パッと見では剣が通用しそうもない。もしかしたらそういう奴なのかもしれない。はなからこのダンジョン自体例外的なものだったわけだし、そのせいで報酬無しだってことならいい気味だ。「チッ……クソ! なんだよ! 期待させやがってよ! 碌なもんねぇじゃねぇか!!」 蛇男が八つ当たりでボスの死体を蹴り飛ばす。けれども自分のつま先を痛めただけのようだった。 もうほとんど何も見えないくらいにダンジョンが暗くなっていく。もう少しでこの空間が消失するのだろう。そしたら姉さんのいる家に帰って、チャットで食事会の日程決めて、そっからはどうしよう。クリーナーにはなれなかったのに、気持ちは前向きだった。「……」 目を閉じて、無言で元の世界に戻されるのを待つ。途中ボクッという鈍い音が響くが、蛇男が学習しないでまたボスの死体に八つ当たりしたのだろう。そう、思っていた。しかし、続く声が現実はそうではないと告げる。
出口のゲートがあった場所から数分歩いたところ……そこにボス部屋の扉があった。ただダンジョンの状態が異常なのもあって、その扉もとても正常とはいいがたい状況だ。 燃え盛る炎のようなオレンジの扉、澄み切った氷塊のような青白い扉……それらが同じ場所に重なって存在していた。「どうだ? おもしれーだろ」 通常の物理法則では決してあり得ない状態。互いの扉が互いにめり込み、それこそゲームでいうバグのようなあからさまに不自然な状態だった。当然、面白くもなんともない。これからこの扉の先へ踏み込まなければならないのだから。 ボス部屋の前にやってきて、ミミズクはやっと解放される。ずっと蛇男に腕を絡められていた首は、やや赤くなっていた。「だいじょーぶ? りぃだぁ……」「すまない……」「もう、そればっかじゃん」 ミミズクは喉をさすりながら自分のパーティメンバーのところへと戻っていく。しかしここまで来てしまえば、もう逃げだすことなどできやしないのだった。 合図もなしに蛇男の手でボス部屋の扉が開かれていく。不自然な状態の扉はしかし、干渉するようなこともなくスムーズに開く。その扉の開かれた先には濃密な闇が広がっていた。 来訪者を受け入れてか、ボス部屋に二色の光が灯りだす。その光は徐々に増え、輝きを増し、ついにはボス部屋の中央にいる二体のモンスターを照らし出した。 その姿を捉えた夏山さんがつぶやく。「烈火の炎霊……レベル19……。晶氷の霜霊……レベル10……」 そこに居たのは、まるで泳ぐように宙を舞う二対のモンスターだった。上半身は人の女性に似た姿をしているが、腰から下は魚のもの。いわば人魚、全体的なシルエットでいえばクリオネのようにも見えた。 細い首からつながる頭部はまるで巨大な貝のようで、その二枚の殻の中心には真珠のようなものが挟まれていた。魚の部分は半透明の流体で構成されており、それぞれオレンジ色と水色をしている。 二体はお互いの後を追うようにくるくる泳ぎ、そして体を絡ませるようにして俺たちのいる高さまで下りてきた。「へっ、レベル19と10か……まぁ楽勝だな……。俺は高レベルの方を倒す。お前らは全員でもう片方を抑え込んでな」 作戦……というより、あくまで自分が動きやすいようにするためにそれだけ言い残して蛇男は炎霊の方へ向かっていく。
その後もいくつかのことを話し合って、結局まずは出口を見つけようという結論に落ち着いた。ミミズク曰く「なんとしても今日来てるC級クリーナーより先に出口を見つけなければならない」ということだった。「もし彼が先に出口を発見していた場合、最悪の事態に陥る可能性がある」とも言っていた。その最悪の事態が何を指すのかは現状分からない。 即席のブランクカードとE級D級混成パーティで、奇妙なダンジョンを探索する。異常事態が重なった結果、本当になんだかとんでもないことになってしまった。 洞窟内の環境は相変わらずめちゃくちゃで、でたらめな気温変化は体にもよくない。じわじわと体力が奪われていくのを感じた。モンスターも、D級ダンジョンに居た方の魔物はまだまばらながら残っており、未だE級未満である俺たちにはそこそこ厳しい戦いになった。ただ、こうして戦うことができたのはまぁ心残りとか、そういう意味ではよかったと思う。 それからどれほど経ったか、今までで一番長いダンジョン滞在の終わりが見えてくる。俺にとっては、最後の瞬間になるわけだ。曲がりくねった道の先に、出口のゲートの青白い光が……。「よぉ、お前ら。遅かったじゃねーかよ」「……!!」 神経を逆なでするような、あいつの声が俺たちを出迎える。やっとの思いでたどり着いたゲートの手前、蛇男が俺たちの来訪を待っていた。「ん? てかあれ? 誰だよそいつら」 蛇男の視線がぎろりとミミズクたちに向く。そして何かを言おうとするミミズクたちを遮った。「まぁいい。俺だって馬鹿じゃねぇからな。別の攻略隊がいるんなら……ま、さっきのはそういうこったな」 ただの勘か、それともやはりダンジョンに慣れているのか、すぐに事態の本質に目星を付ける。そうしてニッと口端を吊り上げた。「ていうことは、だ。このダンジョンには、ボスが二体いる……。おい、お前ら……等級は?」 ミミズクの想定していた最悪の事態。やっとその意味を理解する。俺たちは、この男のわがままに付き合わされるかもしれないということだ。「僕らは……E級とD級の混成パーティだ。だが……お前が何を考えているのかは大体わかる。僕たちは、協力しないよ。帰って、協会に報告する」 蛇男がミミズクをにらみつける。そして頭を横に振って、あきれ顔でため息を吐いた。「かー、わかって
それから数秒、程なくして揺れは収まった。まだ砂嵐の中にいるかのように視界は晴れないが、地鳴りも収まったようだしとりあえずは異変の終息とみていいだろう。本当に、最終日だというのに不幸が重なってばかりだ。いや、最終日だからなのか? 肩の塵を払い、ゆっくりと立ち上がる。「みんな、大丈夫か?」 そして今度こそ、今度こそ答えてもらうつんりでみんなに尋ねた。「なんとか……大丈夫です……」「……口のなかがじゃりじゃりする……」「結局、なんだったんでしょうね?」「ていうか……あっつ」 直接口で大丈夫と言ってくれたのは夏山さんだけだったが、みんな無事という認識で間違いなさそうだ。 やがて視界もクリアになっていき、みんな互いの汚れまみれの顔を認識できるようになった。誰一人欠けていないので、ひとまずそこは安心だ。だがしかし、それとは別に事態は混迷を極める。「で、なんなんだよこれ……。どうなってんだよ……」 洞窟の崩落……だと思っていたのだが、どうもそれとはわけが違そうだ。「道が……増えてる……?」「それにオレンジ色の鉱石が……。こんなのさっきまでなかったよな?」 崩れたという表現ではやや不適切。明らかにダンジョンの構造が変化していた。そしてその性質も。 氷のような結晶、炎のような結晶、その二つが入り交じる。かといって熱いと寒いでちょうどいいかと言えばそれはまた別の話で、ダンジョン内部の気温は無茶苦茶だ。暑いところは暑いし、寒いところは寒い。 ただでさえ複雑な構造に悩まされていたというのに、道が増えたとあってはいよいよどうしたものか分からない。正直、これからあの蛇男に追いつくのは絶望的な気がした。 ただ、蛇男は蛇男でこの状況にどう対処しているのだろう?あいつにとってもこれは想定外だったろうし、やたらむやみに行動しているとも思えない。「これから、どう……します?」「うーん……」 夏山さんの言葉に剛史くんが頭を悩ませる。そして剛史くんが出した結論は、皐月の教えを守った基本的なものだった。「とりあえず、出口を探そう。状況が状況だから、いったん脱出することも考えといた方がいいと思う。ただ、その……その場合、この研修の七日目がどういう風に処理されるのかは分からないけど……」「……」 未覚醒者が大半を占めるこのチーム。もしこれ